金浦の歴史・沿革
- 金浦の紹介
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歴史
三国時代
高句麗・百済・新羅の3国が鼎立していた頃、金浦地域は3国が互いに睨み合う地であった。金浦地域が初めて歴史の記録に登場したのは高句麗・長寿王63年(475年)のことで、新羅が韓半島を統一した後、景徳王16年(757年)に全領土を9州5小京に再編する際、漢州に属する金浦半島を「金浦県」(金浦・高村・黔丹)、「分津県」(通津・月串)、「童城県」(霞城)、「戍城県」(陽村・大串)、「孔岩県」(ソウル市江西区)の5つの県に分け、そのうち金浦・分津・童城・戍城の4つの県は長堤郡(現在の富川市)の領県に、孔岩県は栗津郡(現在の始興市)の領県とした。また、かつての童子忽県(またの名を幢山県)と首尒忽県は、同じく景徳王16年(757年)に、それぞれ童城県(長堤郡の領県)と戍城県(長堤郡の領県)に改名した。そのうち戍城県は、高麗初期に守安県となり、恭譲王3年(1391年)には通津県に併合されたため、その名は韓国の歴史の表舞台から消えることとなった。
高麗時代
高麗・成宗王時代には関内道(現在の京畿道・黄海地域)に、顕宗9年(1018年)には樹州(富平府)の属県となり、明宗2年(1182年)には金浦が分かれて初めて監務を置いた。そして神宗元年(1198年)には、この地に御胎を埋めた後、県令を置いた。また陽村の昔の名前である斉次巴衣県は、景徳王16年(757年)に孔岩県に改名されて栗津郡の領県になり、高麗・顕宗9年(1018年)には樹州に属したが、忠宣王2年(1310年)に再び陽川となり県令を置いた。
朝鮮時代
朝鮮王朝・太宗14年(1414年)8月、陽川県を合併して金陽県とし、同年10月に再び分離して陽川は衿川(現在の始興市)に、金浦は富平府に編入され、金浦という名は一時なくなる。しかし同王16年7月原状に復して金浦県を設けた。そして仁祖王10年(1632年)北城山に章陵を安置して金浦県を郡に昇格させた。高宗32年(1895年)の行政区画改編の際には仁川府に属する郡となり、高宗33年(1896年)には4等郡守が治める郡になった。かつて通津・月串一帯にあった平淮押県(または比史城、別史波兒、比北史城)は、景徳王16年(757年)の行政区画再編の際に分津県に改名されて長堤郡の属県となり、高麗時代に通津県に改名された。その後、恭譲王3年(1391年)に童城県と守安県の2県を合併して初めて監務を置き、朝鮮王朝時代の太宗13年(1413年)に県監を置いた。そして粛宗20年(1694年)に通津府に昇格、高宗32年の行政区画改編の際には再び通津郡となり、同王33年には3等郡守が治める郡となった。
近代
1914年3月、全国的に行政区画の改編が行われたとき、金浦郡・通津郡・陽川郡の3つの郡は金浦郡に郡面併合された。そして併合前に金浦郡に属していた郡内面・石閑面・古県内面は「郡内面」に、黔丹面・馬山面・蘆長面は「黔丹面」に、林村面と高欄台面は「高村面」に編成され、通津郡に属していた府内面・甫口串面・月余串面・所伊串面・古伊串面・半伊村面・迭田面・奉城面・大坡面・陽陵面・桑串面は行政区再編成により「月串面」「霞城面」「陽村面」「大串面」となり、陽川郡に属していた県内面・三井面・加背谷面・南山面・将軍所面は「陽東面」と「陽西面」に編成されて計9つの面に整えられた。
近代以来
- 1963年1月1日陽東面と陽西面をソウル市に編入(7面) (大統領令第1172号)
- 1973年7月1日富川郡の梧亭面と桂陽面を編入(9面) (大統領令第2597号)
- 1975年10月1日梧亭面を富川市に編入(8面)
- 1979年5月1日金浦面を邑に昇格(1邑7面) (大統領令第9407号)
- 1983年2月15日通津面を新設(1邑8面) (大統領令第11027号)
- 1989年1月1日桂陽面を仁川市に編入(1邑7面) (法律第4051号)
- 1995年3月1日黔丹面を仁川広域市に編入(1邑6面) (法律第4802号)
- 1998年4月1日金浦郡を金浦市に昇格(3洞6面) (法律第5458号)
- 2003年9月1日金浦3洞を沙隅洞と豊舞洞に分洞(4洞6面)
- 2004年1月1日通津面を通津邑に昇格(1邑5面4洞)
- 2009年9月1日高村面を高村邑に昇格(2邑4面4洞)
- 2011年11月14日陽村面を陽村邑に昇格(3邑3面4棟)
- 2012年9月24日場基洞を新設(3邑3面5洞)
- 2013年10月28日金浦2洞から九来洞を分洞(3邑3面6洞)
- 2015年2月2日金浦2洞から雲陽洞を分洞(3邑3面7洞)
- 2017年4月18日金浦1洞から金浦本洞に洞名を変更
- 2017年4月18日金浦2洞から場基本洞に洞名を変更
- 2019年9月23日九来洞から麻山洞を分洞(3邑3面8洞)